泰星高校2年(福岡) 濱野 賢一朗の補足意見

本文はこちらをご覧下さい。

●新課程指導要領について
 指導要領については今更私が述べるようなことは無いので以下を参考にして 頂ければよいと思います。


●飛び入学が先か?高校教育改革が先か?
 今、(私が知る限り)「飛び入学」に対しての多くの意見は
  ・「飛び入学」はあまりにも多くの矛盾を持っており認められない
  ・(高校教育の問題点からの理由で認めるくらいなら)高校教育改革の方が ほっぽど先だというものです。本文では後者の問題への回答が一切ありません。 したがってここでは後者に対しての意見(返答)を書きたいと思います。
 まず、素直に考えれば高校教育に問題点があるというのであればその問題点を早急に解決するべきである。このことは誰もが認める意見だと思います。しかしながら早急に手を打ったとしても解決するのはいつのことになるのでしょうか。今問題となっているのは教育の質・学校の生徒への束縛・教師の怠慢などですがこのような問題は1年や2年で解決できるような問題ではないと思います。たとえば今の3つについてでも、今まで学校という存在が生徒を押しつけ時間を束縛し行動を規制してきたにも関わらず突然生徒に対して多少なりとも自由を認めるでしょうか。きっと社会規範に外れるなどといろいろな理由を付けて認めないでしょう。また、いい加減な授業をしたところでクビになることはないと安心しきっている教師が突然真面目に教育に取り組むでしょうか。何もこういった状況だけが今の高校教育の実態だとはいいませんが、実際このような状況を持っている学校というのは山ほどあります。このようなことを考えあわせてみると今すぐ高校教育改革をやっても今の学生には「そのうち学校も良くなるよ、君達が学生の間は我慢して下さい。」と言っているのとそう変わりません。したがって本文中にも触れたとおり何か目的を持って学ぼうとしている者に対しての対策として「飛び入学」も悪くないと思います( 高校の悪環境に染まって目標を見失うくらいなら)。 ただ1つ問題点があります。それは以上のような意味で「飛び入学」を認めるのであれば数学・物理にこだわるのはおかしいという事です。確かに数学・物理だけを特別視するのはおかしいと思います。したがって本文中でいう「学問としての体系を持つもの」すべてに対して認めるべきであると思います。その上での「飛び入学」だったら認めてもよいと私は判断します。
※飛び入学の意図は文部省の捉え方と大きく異なります。

●倫理的問題点について
 他の人の意見では「倫理的な問題点から」認められないということですが、本当にそのような問題点はあるのでしょうか。ここでは特に自分の考え方を確立するという意味での「思考形態の確立」を中心に考えたいと思う。このことを問題視している意見は主にこのような事のようです。『「周囲から特別視されたり違う年齢の人の中にいることによって」思考形態の確立を損なうことになる。』しかしながら本当にそうなのでしょうか。もともと思考形態などは自分内部から問題視し次第に固まっていくものだと思いますし、多くで認められていることです。もしそうならば周囲から特別視されたり違う年齢の人の中にいることで問題があるのでしょうか。少なくとも私の経験上違う学年の中にいることでの傷害はほとんどないと思います。はっきり言ってしまえば年が1つ2つ違ったところでその変わりはありません。また、周囲から特別視されている人が思考形態の確立していないのを見たことがあるでしょうか。第一何か学問への取り組みを行おうと思っている人がそんな簡単なことで自己を見失ったりすることはまずないといってよいでしょう。したがって私としては「倫理的な問題から」認められないというのはおかしいと思うのです。

●提案
 理由・根拠は本文や以上の補足を見てもらうことにしてここでは結論としての提案のみを書きたいと思います。
 まず、現在高校に在籍している者に対して高校からの束縛を解消できるような道を作る(当然このことを問題視しているのは何かしら自分にやりたいことを持っている人なので高校をやめるというのはナンセンス)。当然「飛び入学」をその一つに取るのであれば数学・物理に止まらず学問としての体系を持ったものすべてにおいて適用出来るようにする。また、このことと同時に現在の学校教育(高校に留まらない)の問題点を明確にし、的確な対応をとる(このときに教育学者だけではなく現場の意見として教員・学生の意見を積極的に聴く)。
 こうすることによってかなり多くの問題が解決すると思います。